七つの海を渡って

落ち込むことがあっても、前向きにエネルギッシュに生きていきたいものです。そして、それを世の中の多くの人たちに伝播していければ…そんな思いを込めて。

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いのちの重さ

ここのところ、ずっと腑に落ちていなかったトピックがあった。
ある人が送ってくれたメールがその疑問を解いてくれた。

「なぜ、動物を殺してはいけないのか。」

これが、私の中にここしばらくあったテーマだった。

話が飛んでいるように聞こえるだろうが、最近、私はベジタリアンになった。
とはいえ、魚は食べなくもないし、肉料理も振舞われたら、有難く頂戴することにしているので、厳密なベジタリアンとは違うが、自分の日常の生活はベジタリアンを通すことにした。
その理由は、肉に存在するエネルギーや肉ができる過程について学べば学ぶほど、肉を欲する気持ちがなくなっていったからだ。

ルドルフ・シュタイナーはこういっている。
「人間が肉食をすると、動物のアストラル体をとおして生じたことが人体内で継続します。(中略)アストラル体は意識を持った存在のなかで、あるプロセスを生じさせるので、肉食をすることによって人間は、自分の神経組織に影響を与えるものを摂取することになるのです。
 これが、菜食と肉食の基本的なちがいです。肉食は、まったく独特な方法で人間の神経組織とアストラル体に働きかけます。菜食の場合、神経組織が外から影響を受けるということはありません」(『健康と食事』イザラ書房)

つまり、動物には意識があり、その意識を自分の体内に入れることで、自分の肉体とアストラル体にもその動物の意識が影響するというわけだ。

昔、昔、人間が狩りをしなければ、自分が生き延びることができなかった時代、そのときは肉食だったとしても、自分に必要な量だけ獲って食べていた。日本では、肉を食べる習慣が長らくなかったろうけど、それでも、食べるときは、動物が死んでいたり、たまに獲ったときに少し食べる程度だったろう。しかも、肉にありつける人は、全体のほんの一握りだったろうし、たいていの人は、菜食や魚介類で生きていたと思われる。つまり、現代社会のように大量生産の上に成り立った肉食ではなかったのである。

今の社会では、肉はブロイラーとなり、さまざまな薬漬けにあい、生まれたときから、人間に食べられるための一生をすごす。殺されるときには、痛みや苦痛の少ない屠殺方法をとられているだろうが、それでも、自分が殺される前にそれを察知して恐怖感を感じた状態で殺されている。

それだけでも、必要以上の頭数が日々、人間の満足感のために犠牲となっていると思っているのに、さらに、イルカやクジラを殺す人たちがいるということに、非常に驚いてしまう。

何故、現代のこの飽食の時代にイルカやクジラを殺して食する必要があるのだろうか。それを、文化だ伝統だというが、そんな人間の伝統や文化のために、貴重な動物のいのちを犠牲にして、良いものなのだろうか。それは人間の単なるエゴではないのか。

イルカを殺すことが仕事の人たちにとって、イルカ猟をしない=職を失う ということになるから、反対するのだろうが、だからといって、他の選択肢を考えることはできないのか、何も野生の哺乳動物を殺さなくても、魚介類をとっていたって十分じゃないのかーーー、と常々考えていたのだ。

そこで、冒頭の知人のメールで自分の中の疑問が解けた、につながる。
知人はこう説明してくれた。引用しよう。

「動植物の進化には『物質(肉体)的進化』と『霊性進化』の二面性がありますが、動物は霊性の発達が進んで行くに従って、死ぬことに対しての認識と恐怖が増します。肉体的な痛みや苦しみ、そして精神的な苦痛が、霊性の進化と共に増して行くという傾向があり、つまり、霊性の高い動物を殺すことは『残虐性』が高いということになります。
霊的に言えば、全ての動物を人間が勝手に殺すことは間違いなのですが、この時代の殆どの人間は、まだそれを知りません。どうしても殺さなければならないのであれば、できる限り『残虐性』の少ない殺し方をすることが、現時点での得策なのです。
魚だって殺されることが嫌だから、捕まえようとすれば、なんとか逃げ延びようとします。
生きたいと願うものの命を無理やり奪っているので、残虐性はあります。
が、ただ、魚は痛みを感じないと言われています。
その辺りが哺乳類などの高等動物とは少しだけ違うところです。
そういった視点でイルカ漁を考えると、それは相当大きな残虐性が見て取れます。
『イルカを殺してはいけない』という強い衝動は、まず環境破壊以前に『残虐』と感じる人間の潜在意識の働きがあるからかもしれません。
そういったことを感じる段階の人間が増えてきたのだと考えて良さそうです。
環境破壊という視点でみれば、家畜の弊害の方が圧倒的に大きいワケですから。

因みに、豚の知能指数は、人間の3歳児程度と言われています。
殺されることに対して、きっと相当の恐怖を感じることでしょう。
生まれながらにして狭い檻に閉じ込められ、自由を奪われ、薬漬けにされ、時にはストレスでノイローゼの個体も出現するようです。
これはイルカを殺すこととあまり違いはありません。
プロセスは違いますが、残虐性という視点で見るなら、違いはないということです。

つまり、人間は『美味しい』という一種の贅沢のために、動物の命を都合よく操作しているわけです。
それが環境破壊や、発展途上国の食糧難や栄養失調を引き起こしているのですが、
それは主に先進国の責任でもあります。

さて、では、なぜ植物は食べてもいいのでしょう?
植物だって生命で、立派な霊です。

実は、植物にも『意識』があるのですが、それは人間の想像するような『意識』とは違います。
恐怖や痛みというものがありません。
そいった人間的意識や感情を感じとる人もたまにいますが、それはその植物などを管理している自然霊(妖精)の発する想念と思われます。
また、人間霊や動物霊がこの世で生活するためには、物質的肉体に宿るのですから、何かしらの食べ物が必要です。
それを神様が用意していないハズがありませんし、人間の肉体構造を考えれば、植物は食べても構わないとなります。
食べ物の優先順位、それは『残虐性の少ないものから食べる』という考え方です。」

これで、しごく納得ができた。
動物を殺してはいけない理由、それは、残虐性を考えるとわかりやすかったのだ。
人間は霊的な生き物だ。十分に感性が磨かれれば、同じように霊性を持つ動物を殺すことが、どれだけ残虐なのかがわかると思う。
もちろん、植物だって粗末に扱っていいわけではない。食べさせてもらう以上、ありがたくいただく、これが原則の上の話なのだ。




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